薬師寺はいつ建てられた?誰が建てたのかを分かりやすく整理

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薬師寺はいつ建てられた?誰が建てたのかを分かりやすく整理 お寺

薬師寺について調べていると、「いつ建てられたのか」「誰が建てたお寺なのか」という説明が、資料によって少しずつ違って見えることがあります。680年・697年・718年といった年号が並び、藤原京や平城京、本薬師寺という言葉も出てきて、結局どう理解すればよいのか分かりにくいと感じる方も多いのではないでしょうか。

この記事では、奈良の薬師寺を中心に、「いつ・誰が・どこに」という三つの視点から成り立ちを時系列で整理します。あわせて、下野薬師寺など同じ名前を持つ寺院との違いにも触れながら、薬師寺の歴史の流れを一通りつかめるよう、ポイントをしぼって解説していきます。

薬師寺はいつ建てられた?まずは結論とざっくり年表

まずは一言で答えると

奈良の薬師寺は、白鳳時代の天武天皇9年(680年)に建立が発願され、その後藤原京で伽藍が整い、養老2年(718年)に現在の奈良市西ノ京の地へ遷されたお寺です。

「いつ建てられたか」を一つの年で表すなら、「創建発願は680年」「藤原京での完成は697年ごろ」「平城京遷寺は718年」と覚えておくと全体像がつかみやすくなります。

年号で見る薬師寺の成り立ち(白鳳〜奈良時代)

薬師寺の歴史は、年号で追うと整理しやすくなります。代表的な出来事を並べると、次のような流れです。

  • 680年(天武天皇9年)
    天武天皇が皇后・鵜野讃良皇女(後の持統天皇)の病気平癒を祈り、薬師寺建立を発願する。『日本書紀』にもこの出来事が記されており、これが薬師寺の「創建」の起点とされています。
  • 697年(持統天皇10年)
    新都・藤原京に造営された薬師寺で、本尊薬師如来の開眼供養が行われたと伝わります。伽藍の整備もこのころまでにほぼ完了し、僧侶たちが住み修行する「寺」として本格的に動き始めました。
  • 710年(和銅3年)
    都が藤原京から平城京へ移る。
  • 718年(養老2年)
    藤原京の薬師寺が、平城京右京六条二坊の現在地へ遷されたとされます。ここから「奈良・西ノ京の薬師寺」の歴史が本格的に始まります。
  • 730年ごろ(天平2年)
    現在も残る東塔が建てられたと考えられています。奈良時代の建物として唯一創建時から現存し、「凍れる音楽」と称される名塔です。

このように、薬師寺の「いつ建てられたか」は、発願・完成・移転・塔の建立といった複数の節目から成り立っています。そのため、どこに重きを置くかによって答え方が変わる点を押さえておくと混乱しません。

誰が薬師寺を建てたのか:天武・持統・文武の国家プロジェクト

発願したのは天武天皇

薬師寺の創建は、天武天皇が皇后の病気平癒を願ったことが直接のきっかけでした。『日本書紀』天武9年11月12日条には、天武天皇が鵜野讃良皇后のために薬師寺建立を発願し、多くの僧を出家させたことが記されています。

この段階では、まだ場所も伽藍の全体像も固まっていない「計画」の段階です。天武天皇が描いたのは、薬師如来の力によって皇后の病が癒えることを祈るだけでなく、仏教の力を借りて国家を安定させるという、大きな構想でした。

完成させたのは持統天皇と文武天皇

しかし天武天皇は、薬師寺の完成を見る前に686年に崩御します。
その後、即位したのが鵜野讃良皇女、すなわち持統天皇です。持統天皇は、夫である天武天皇の遺志を継ぐ形で、新都・藤原京の建設と薬師寺の造営を進めていきます。

697年に本尊薬師如来の開眼供養が行われ、伽藍が整ったとされるのは、持統天皇の治世末期にあたります。そののち、文武天皇の代にも整備が続き、藤原京の薬師寺は「天下の四大寺」の一つに数えられるほどの大寺院として確立しました。

つまり、「誰が薬師寺を建てたか」という問いに対しては、次のように整理できます。

  • 計画を立て、創建を発願したのは天武天皇
  • 実際に新都で伽藍を整え、寺として完成させたのは持統天皇とその後継の文武天皇

この意味で、薬師寺は一人の天皇ではなく、複数の天皇と朝廷の力を総動員した「国家プロジェクト」として造営されたお寺だといえます。

病気平癒から国家安泰へ、祈りの意味の広がり

当初のきっかけは皇后の病気平癒でしたが、白鳳〜奈良時代の国家仏教の流れの中で、薬師寺には国家の安泰や社会全体の安寧を祈る意味も重ねられていきました。薬師如来は本来、人々の病を癒やす医薬の仏ですが、当時は疫病や飢饉など国家的な危機を鎮める仏としても重視されていたからです。

こうした背景を知ると、「薬師寺は誰が建てたのか」という問いは、単に天武天皇の名前だけではなく、「天皇・朝廷・技術者たちが、国を守るために力を合わせて築いたお寺」という広いイメージでとらえることができます。

どこに建てられたのか:藤原京から平城京への移転ストーリー

まずは藤原京の「本薬師寺」から始まった

薬師寺の歴史は、現在の奈良市西ノ京ではなく、飛鳥地方に建てられた藤原京の薬師寺(本薬師寺)から始まります。都が飛鳥から藤原京へと移った際、その新都を象徴する大寺として計画され、伽藍が整えられました。

本薬師寺跡は現在、奈良県橿原市に位置し、建物は残っていませんが、塔跡や金堂跡、回廊の基壇などが発掘調査によって確認されています。当時の薬師寺は、東塔・西塔・金堂・大講堂が回廊で囲まれた「薬師寺式伽藍配置」を持つ、わが国屈指の大伽藍でした。

平城京への遷都と、西ノ京・薬師寺の誕生

710年に都が藤原京から平城京へ移ると、薬師寺も新しい都に移されることになります。史料には、養老2年(718年)に「薬師寺を平城京に移す」といった趣旨の記録が残っています。

この「移す」という表現が、後に「薬師寺論争」を生むことになりますが、結果として、西ノ京の現在地に建てられた薬師寺も、藤原京と同様に東西両塔と金堂・大講堂を回廊で囲む壮麗な伽藍を備えた大寺院となりました。周囲に高い建物がほとんどない現在でも、東塔・西塔・金堂が並ぶ姿は、西ノ京の空に映える象徴的な景観となっています。

「薬師寺式伽藍配置」とは何か

薬師寺の伽藍は、日本の寺院建築史の中で「薬師寺式伽藍配置」と呼ばれる、特徴的な配置を持っています。

多くの寺では、金堂の後ろに塔が建てられるのに対し、薬師寺では南から見たときに、左右に東塔と西塔、中央に金堂、その後ろに大講堂という順に建物が並び、それらを回廊がぐるりと囲む構成になっています。

さらに、堂塔の各層に裳階(もこし)と呼ばれる小さな屋根が付けられていたため、その姿は「龍宮造り」とも称されました。6枚の屋根を持ちながら内部は三層構造という東塔のデザインも、この龍宮造りの美しさを象徴しています。

本薬師寺と奈良・薬師寺、「薬師寺論争」とは

「平城京に移した」とは、建物をそのまま動かしたのか

先ほど触れたように、史料には「薬師寺を平城京に移す」という表現が見られます。ここから、藤原京の本薬師寺をそのまま移築したのか、それとも平城京で新たに薬師寺を建てたのかという「薬師寺論争」が長く続いてきました。

近年の発掘調査によると、本薬師寺跡と平城京の薬師寺跡では、中門や回廊の構造・瓦の型式などに微妙な違いがあることが分かってきました。このことから、今日では「藤原京の本薬師寺と平城京の薬師寺は、計画や様式を引き継ぎながらも、平城京で新たに造営されたと考えるのが妥当」という見方が有力です。

藤原京の本薬師寺と平城京の薬師寺の関係を整理すると

ざっくり流れをつかみたいときは、次の3点を押さえておくと整理しやすくなります。

・「薬師寺の始まり」は藤原京の本薬師寺(680年発願、697年完成)
・平城京では、その藤原京の薬師寺をモデルに、同じ名前と役割を持つ新たな薬師寺が建てられた
・現在の奈良・西ノ京の薬師寺は、その平城京の薬師寺が母体になっている

この3つをセットで覚えておくと、「いつ・どこで建てられた薬師寺なのか」を混同せずに、人にも説明しやすくなります。

下野薬師寺など、同名の「薬師寺」との違い

下野薬師寺の創建年と創建者

「薬師寺」という名前のお寺は、奈良だけではありません。その代表例が、栃木県下野市にある下野薬師寺です。

下野薬師寺の創建については、天智天皇9年(670年)ごろとする説、大宝3年(703年)ごろとする説などがありますが、白鳳期〜奈良時代初頭に成立した寺院である点では一致しています。

創建者についても、いくつかの見方があります。天武天皇の勅願により、中央官僚であった下毛野朝臣古麻呂が中心となって造営したと考える説が有力で、天皇の意志と地方豪族の力が合わさって建てられた寺と見ることができます。

日本三戒壇としての役割

下野薬師寺が歴史上もっとも重要な役割を果たしたのは、奈良時代に「日本三戒壇」の一つに数えられたことです。戒壇とは、正式な僧侶となるための授戒(戒律を授かる儀式)を行う場のことです。

奈良の東大寺、筑紫観世音寺(福岡県)とともに、下野薬師寺には国家公認の戒壇が置かれ、東国の僧侶志望者はここで正式な授戒を受けることが定められていました。

このように、奈良の薬師寺と下野薬師寺は、同じ「薬師」という名を持ちながら、

  • 奈良の薬師寺:都の近くに建ち、国家仏教の象徴的な大伽藍
  • 下野薬師寺:東国における仏教施策と僧侶教育の拠点

という違った役割を担っていました。検索の際には、「奈良の薬師寺のことなのか」「下野薬師寺のことなのか」を意識して情報を読み分けると、混乱が少なくなります。

創建当初の伽藍と、いま私たちが見ている薬師寺

白鳳伽藍と「龍宮造り」の姿

創建当初の薬師寺白鳳伽藍は、金堂・東西両塔・大講堂といった主要な建物の各層に裳階が付けられ、その華やかな姿から「龍宮造り」と呼ばれていました。

中央に金堂、左右に東塔・西塔が並び、回廊がそれらを囲む構成は、城のような守りの堅さと、美しいプロポーションを兼ねそなえています。東塔は、一見六重塔のように見えますが、実際には三重塔で、大小の屋根が重なり合う独特のリズムが「凍れる音楽」と賞賛されました。

戦国期の焼失と、現代の復興

しかし、薬師寺の堂塔は1300年にわたる歴史の中で、度重なる火災や地震に見舞われています。中でも、室町時代後期の享禄元年(1528年)の兵火では、金堂・西塔・大講堂など多くの主要伽藍が失われ、東塔だけが辛うじて創建当時の姿を保つことになりました。

その後長く、仮堂や一部の建物だけの状態が続きましたが、昭和期に入ってから大きな転機が訪れます。1960年代、高田好胤師が中心となって始まった「お写経勧進」による伽藍復興です。一巻千円のお写経を百万巻集めるという大構想のもと、全国各地で写経が勧進され、その浄財によって金堂・西塔・中門・回廊・大講堂・食堂などが次々と再建されていきました。

こうして現代の私たちが目にしている薬師寺は、

  • 奈良時代創建の東塔(国宝)
  • 昭和以降に白鳳様式で復元された金堂・西塔・大講堂・中門・回廊・食堂など

が組み合わさった「いにしえと現代の信仰が重なり合う伽藍」と言えます。歴史の時間差を意識しながら境内を歩いてみると、同じ伽藍の中にさまざまな時代の層があることに気づけるでしょう。

まとめ

薬師寺の歴史はいろいろな年号が出てくるので複雑に見えますが、「いつ・誰が・どこで」という三つのポイントに分けて整理すると分かりやすくなります。

まず「いつ」については、創建発願が天武天皇9年(680年)、藤原京での完成が持統天皇10年(697年)ごろ、現在地である平城京・西ノ京への遷寺が養老2年(718年)という三つの節目を押さえておけば十分です。

「誰が建てたのか」という点では、皇后の病気平癒を願って建立を発願したのが天武天皇、その遺志を継いで藤原京で伽藍を整えたのが持統天皇や文武天皇を中心とする当時の朝廷でした。一人の業績というより、国家プロジェクトとして造営された寺だったことが見えてきます。

そして「どこで」という視点から見ると、始まりは藤原京の本薬師寺にあり、その様式や役割を引き継ぐ形で平城京・西ノ京に現在の薬師寺が整えられました。さらに、栃木県の下野薬師寺のように、同じ名前を持ちながら別の地域で重要な役割を担った寺院も存在します。

こうした流れをおさえておくと、「薬師寺はいつ建てられたのか」「誰が建てたのか」という問いにも、自分なりの言葉で落ち着いて説明しやすくなるはずです。

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