毎年のようにニュースになる、成田山新勝寺の節分会。
その豆まきに必ず登場するのが、市川團十郎という名前の歌舞伎役者です。
なぜ彼は毎年この節分行事に参加し続けるのでしょうか?
その裏には、300年以上も前から続く「成田屋」と「成田山」の深いご縁と、初代團十郎が抱いたある“願い”がありました。
この記事では、市川團十郎が節分会に登場する理由と、その背景にある人間ドラマや歴史的エピソードをわかりやすく解説していきます。
読み終わる頃には、成田山の豆まきがもっと身近に感じられるはずです。
市川團十郎は節分会になぜ毎年参加するの?
毎年、成田山新勝寺の節分会に登場する市川團十郎。
その背景には、代々の市川家に受け継がれてきた深い感謝と信仰の歴史があります。
今回は、節分会と團十郎家との関係を紐解きながら、その由来と意味を見ていきましょう。
節分会に参加する理由は、ただの“恒例行事”ではなく、先祖の願いと恩返しの心が込められた、特別な想いの表れなのです。
この背景を理解すると、豆まきがもっと尊く、ドラマチックに見えてきます。
では、具体的にどんな理由があるのか、順を追って見ていきましょう。
子宝祈願と親子の感謝から始まった節分会参加
市川家と成田山新勝寺の関係が始まったのは、初代市川團十郎が子どもに恵まれなかったことからです。
初代は成田山に子宝を願いに詣で、その祈願が叶い、元気な男児(後の二代目團十郎)を授かりました。
この出来事に深く感謝した初代は、不動明王を題材にした歌舞伎『成田不動明王山』を上演。
それが江戸で大当たりし、「成田屋」という屋号が誕生するきっかけとなりました。
それ以来、成田山への恩返しとして節分会に参加することが、市川宗家にとっての伝統となったのです。
成田山の「鬼は外」を言わない理由とは?
成田山新勝寺の節分会では、一般的な豆まきと違い、「鬼は外」の掛け声は使われません。
これは、成田山が不動明王を祀る寺院であり、「どんな鬼でも、改心して救われる存在」として扱うためです。
つまり、鬼を排除するのではなく、鬼すらも改心して共に福を招くという考え方に基づいています。
市川團十郎も、この精神に共鳴し毎年心を込めて豆をまいています。
成田山節分会はいつから始まったの?
成田山新勝寺での節分会が始まった明確な時期は定かではありませんが、江戸時代にはすでに行われていたとされています。
市川團十郎が参加するようになったのは、初代が子宝祈願に成功したのち。
その後、代々の團十郎も節分会に参加し、信仰と感謝の心を継承してきました。
現在では、團十郎の登場は節分会の大きな見どころの一つとなっており、メディアにもたびたび取り上げられています。
成田山と團十郎家の関係は、節分会だけにとどまりません。
成田屋と成田山の知られざる絆とは?
成田屋と成田山新勝寺の絆は、単なる偶然や偶発的な関係ではありません。
300年以上にわたり、歌舞伎界と寺院が育んできた深い信仰と人間的なつながりがあります。
ここでは、初代市川團十郎がどのようにしてこの絆を築き、「成田屋」の名がなぜ生まれたのかを見ていきましょう。
その背景には、舞台の上だけでは語りきれない人間ドラマが隠されています。
初代團十郎と成田不動明王のエピソード
初代市川團十郎は、家族に恵まれない時期が続きました。
そんな中で訪れたのが、成田山新勝寺。不動明王に子宝を強く祈願し、その願いが叶って、後の二代目となる息子が誕生したのです。
この出来事に心を打たれた初代は、恩返しの思いを込めて、歌舞伎の舞台で「成田不動明王」を題材とした演目を上演しました。
これが江戸中で大ヒットし不動明王信仰も広まり、江戸っ子たちの間で「成田詣」が一大ブームとなりました。
成田詣が江戸でブームになった理由
初代團十郎の舞台をきっかけに、成田山への参詣が江戸の庶民の間で急激に流行します。
江戸から成田までは簡単に行ける距離ではありませんでしたが、團十郎の演技に心を打たれた人々は、こぞって成田詣に出かけました。
それほどまでに、團十郎と成田山の物語は、人々の心を動かしたのです。
そして、江戸庶民の信仰と興奮が「成田屋」という屋号の誕生へとつながっていきます。
「成田屋!」の掛け声と屋号の由来
市川宗家の屋号「成田屋」は、初代の不動明王への深い信仰心と恩返しの行動に由来しています。
舞台での大成功により、江戸っ子たちは自然と「成田屋!」という掛け声を送るようになり、それが市川家の正式な屋号となりました。
現在でも、團十郎が登場する場面では客席から「成田屋!」という力強い声援が飛び交います。
それは単なる応援ではなく、300年以上受け継がれてきた歴史と絆への共感と敬意の表れでもあるのです。
では、代々の團十郎たちは、成田山とどう関わり続けてきたのでしょうか。
歴代の市川團十郎と成田山の深いつながり
初代市川團十郎から始まった成田山との関係は、単なる一代限りの出来事ではありません。
二代目、三代目……と代を重ねるごとに、團十郎家と成田山新勝寺との絆は、さらに深く、そして多面的なものへと発展していきました。
ここでは、歴代の市川團十郎たちがどのように成田山との関係を築き続けてきたのかを見ていきましょう。
七代目と八代目が寄進した灯籠や額堂
七代目と八代目の市川團十郎は、それぞれ成田山に灯籠や額堂を寄進しています。
これは、物理的な「奉納」を通じて、寺院とのつながりを可視化したものであり、成田山の境内には今もその名残が数多く残されています。
成田山新勝寺を訪れると、歴代團十郎の名前が刻まれた奉納物を目にすることができます。
これらは信仰と文化が交差する歴史の証として、多くの参拝者の目を引いています。
歴代の團十郎が成田山から借金していた?
一見すると意外かもしれませんが、歴代の團十郎の中には、成田山から借金をしていたという記録も残っています。
それは信仰心とは別に、経済的なつながりや人間関係も築かれていたことを示しています。
成田山は、単なる宗教施設としてではなく、江戸の芸能界を支える“縁の下の力持ち”的な存在でもあったのです。
歌舞伎役者たちにとって、成田山は心の支えであると同時に、現実の支援者でもあったことがわかります。
成田山に残る團十郎のエピソード集
成田山には、團十郎家にまつわる多くのエピソードが語り継がれています。
たとえば、境内での奉納演舞や、参拝のたびに行われる豆まきのエピソードなど、そのどれもが「家族ぐるみ」の関係を象徴しています。
近年では、市川海老蔵(現・十三代目市川團十郎白猿)も成田山での節分会に参加し、父や祖父の伝統を受け継ぐ姿が話題となりました。
このように、團十郎家と成田山は、単なる行事を超えて、精神的な絆で結ばれているのです。
以上が、歴代の市川團十郎と成田山新勝寺の深いつながりの全貌です。
ここまで読んできたことで、この節分行事が持つ意味が一層クリアになってきたのではないでしょうか。
まとめ
今回の記事では、市川團十郎が毎年成田山新勝寺の節分会に参加する理由について、その歴史的背景や成田屋との深い絆を掘り下げて紹介しました。
以下に要点をまとめます。
- 初代團十郎が子宝祈願の感謝から不動明王を題材に歌舞伎を上演
- 成田山との関係が評価され、屋号「成田屋」が誕生
- 成田山節分会では「鬼は外」を言わず「福は内」のみ唱える
- 歴代團十郎も灯籠や奉納物を通じて成田山との絆を深めた
- 成田山節分会は、成田屋にとって感謝と信仰の象徴であり続けている
この記事を読んで、節分の豆まきや成田山を訪れる機会があれば、その背景にある物語を思い出してみてください。
舞台の上だけでなく、信仰と家族の想いが込められた伝統行事として、節分会の意味がより深く感じられるはずです。
